2011年10月27日木曜日

あそか園法話会

東京江東区にあるあそか病院に併設されている、特別養護老人ホームあそか園の10月の法話会に行ってまいりました。これは築地本願寺の「東京ビハーラ」の活動の一環で毎月講師が派遣されています。
久し振りの出講でしたので時間よりずいぶん早くついてしまい係の方にご迷惑をかけてしまいました。
法話会は利用者の方と職員の方とあわせて50人くらいの参加だったでしょうか。「らいはいのうた」をお勤めしてそのあとご法話をさせていただきました。法話のあとは「旅ゆく親鸞」を全員で合唱して終わりました。皆さん真剣に聞いてくださるので嬉しかったことです。

ちなみに、あそか病院は、大正12年9月1日の関東大震災が発生したあと西本願寺が東京の日比谷公園に設けられた救護所の医療活動があそか病院の前身となっています。その中心になって救護活動をされたのが九条武子夫人でした。

2011年10月24日月曜日

法然と親鸞 ゆかりの名宝展 開会式・内覧会


明日から東京国立博物館(TNM)で開催される「法然と親鸞 ゆかりの名宝展」に先立ち本日24日、関係者を招待しての開会式・内覧会がありました。私も招待を受け行ってきました。
開会式では主催者の東博、NHK、朝日新聞の挨拶と、浄土宗と真宗教団連合を代表して本願寺派総長橘氏が挨拶しました。その後、関係者合同でテープカットがあり、展覧会が開幕しました。
本願寺派からは、ご門主様、お裏方様、新門様、総長、総務、宗務首都圏センター長、総局秘書、東京教区北組組長、築地本願寺伝道学事部長などのお顔が見えました。
展示は浄土宗と浄土真宗の宗派各派から出展された珠玉の名宝があり、見終わったときのはもうお腹一杯でした。

特に感動したのは出品番号155番「山越阿弥陀図屏風」(京都金戒光明寺蔵)でした。数多くの展示物は礼拝の対象であったり、美術工芸品、歴史的真筆でありましたが、これは、阿弥陀仏の手から五色の糸が結ばれた跡があり、今まさにいのち終わろうとする人と、この屏風図の阿弥陀如来の手を五色の糸で結ぶ「臨終行儀」に使われた屏風でありました。これは往生浄土の現場、いのちの現場で使われたものでした。
これで何人の方が救われていったのかなと思うと手を合わさずに入られませんでした。
が、浄土真宗は「臨終来迎」ではなく「平生業成」なのでこれは使いません。

2011年10月14日金曜日

書院が完成、本堂解体へ



正法寺の書院が完成し、10月から本堂の解体が始まりました。コンクリート造なので重機で解体です。53年間建っていた本堂がみるみる瓦礫になっていきます。本堂の正面にあった法輪もはずされました。当初、どこかに付ける予定はなくそのまま廃棄になるところでしたが、なかなかの造りをしているので保存、再利用の方向になりました。取り外す際、一部破損しましたが修復可能です。
新本堂のどこかに取り付けようとおもっています。

2011年9月3日土曜日

母が往生いたしました


7月25日母が亡くなりました。81歳でした。

今年の2月に胃が痛いのがなかなか治らないと言うことで、医者に行きましたら、膵臓癌と言うことがわかり余命6ヶ月といわれました。医者の言うとおり6ヶ月で逝ってしまいました。幸い我が家では母を看るものが何人かいるので、入院することなく家で療養していました。これといった治療はしなく、ただ痛み止めの薬を使って痛みへの対応をしていました。膵臓癌が大きくなると胃や十二指腸を圧迫するので食べ物が入らなくなっていき、ずいぶん痩せてきました。妻は少しでも食べてもらおうと小さく刻んだり、食べたいものをきいては作っていましたが、なかなか食べてもらえないので残念がっていました。母も食べたいのでしょうが食べられないつらさ、食事の時間が来る事へのつらさもあったかもしれません。亡くなった後、母のメモ帳があって、たどたどしい字で、妻が食べやすいように作ってくれるのでとても有り難いと書いてありました。でも、この時期、食べたくても食べられない頃だったような気がします。

最後のひと月くらいは容態が悪くなって入院しました。栄養剤の点滴と酸素吸入だけになってしまいました。酸素の入る量も少なくなってくると苦しそうでした。見舞いに行っても何もすることはありません。体をさすったり、手を握ったりするくらいであまり反応も無くなってきました。本人ももうろうとしていて会話が成り立ちません。携帯電話を持っていたので、夜中に筑波山にいるとか、三島のホテルにつれてこられた、迎えに来てくれなど、幻覚とも取れる発言がありました。そんななかでも会話が出来ることがありました。わかるかどうか不安でしたが「じゃ帰るよ」といったとき、「気をつけて」と私を案じてくれました。思いがけない言葉に驚きました。自分のことだけで精一杯のはずなのに私を案じてくれるなどいつまでも母なのかなあと思いました。

母とはいろいろなところに行きましたが、昨年はインド旅行にも行きとても元気でした。2人で最後に行った所は、今年のはじめ調布の病院に精密検査に行った帰りに寄った、深大寺そば「雀のお宿」でした。このころはまだたくさん食べられた頃でおいしいおいしいと言っていました。ここも思い出の場所になりました。

震災があって、世の中は「悲しみに寄り添って」という言葉をよく聞くようになりました。言葉では悲しみに寄り添うといっても、口ばかりで全然寄り添っていない人ばかりです。寄り添うとはどういうことなのか。

母の見舞いに行くと様態もあまり変わりないので顔を見てすぐに帰ってきてしまいます。妻にはもう帰ってきたのと言われます。私は全然苦しみに寄り添っていませんでした。苦しんでいる母にとって身内がそばにいるだけで安心だったはずです。何もしなくてもぞばに寄り添っているだけで、誰もいないときとは全然違うはずです。妻は寄り添っていました。妻は見舞いに行くと長い時間寄り添ってくれていました。悲しみや苦しみに寄り添うと言うことはそばにずっといるということでした。

口だけで悲しみに寄り添うとか、気持ちで寄り添うとかは全く寄り添ったことにはなっていません。寄り添うとはずっとそばにいるということです。母が教えてくれた最後のことでした。

明日四十九日の法要を勤めて納骨をします。追々父と同じように、京都の本願寺大谷本廟とインドのクシナガラに分骨をさせていただこうと思ってます。


2011年5月25日水曜日

お東も大遠忌

京都の本山、西本願寺に行った。会議まで時間があったので久しぶりに東本願寺へ。お東も親鸞聖人750回大遠忌法要が営まれている。西本願寺では大遠忌書いて「だいおんき」と読むが、東本願寺では御遠忌と書いて「ごえんき」と読む。仲が悪いわけではないが、お東とお西、違う事が多い。例えば畳の敷方が縦と横、障子の貼り方の表裏が逆だったり、数え出したらきりがない。
そもそも「南無阿弥陀仏」を西は「なもあみだぶつ」、東は「なむあみだぶつ」とよむ。
それにしても法要は参拝の方々でいっぱいだった。
写真は西本願寺で出た大遠忌のせんべいと東本願寺の境内から撮った山門。

2011年4月30日土曜日

大唐西域記の研究上巻 将来!


ひょんな事から手に入った大唐西域記の研究下巻という本が書棚にある。大唐西域記は唐の僧玄奘三蔵が629年長安(今の西安)を出発し西域や天竺(インド)の仏教遺跡などの求道の旅の見聞録。この解説本が「大唐西域記の研究」で、尚かつ昭和17年発行の古書である。下巻が手に入ったので上巻が欲しくなり古書検索サイトで調べたら、以外や以外、結構な高値の本でした。ちょっと買える値段でなかったので一回諦めていましたが、最近また調べてみたら何と破格の値段で出ていました。「改装本」でした。改装本の方が表紙や装丁が治してあるのできれいです。別にオリジナルの装丁にこだわらないので早速購入。
最近のネット販売はすごいですね。申し込んで翌日届きました。昔の本なのでそうすらすら読める本でもないので先ずは書棚へ。写真の通り左側下巻がオリジナルの装丁。右側が今回購入した改装本の上巻です。両者それぞれの良さが出ています。
少しづつ読んでみます。地名がすべて漢字なので先ずはその解読から入ります。ガンダーラは「健駄邏国」、
カシミールは「迦湿弥羅国」とこんな調子ですから。

2011年4月27日水曜日

JINKO<沈香>


娘たちが部屋の掃除をしたあとはお宝がたくさん廃棄されている。まだまだ使えるものも沢山あってカラーペンなど筆記用具はもう一生分くらいある。今回は錬り香水が発見された。「JINKO」と書いてある。漢字で書くと「沈香」である。沈香はお香の中でも高級品なので普段の法要ではあまり使わない。お寺やお香屋さんでしか見ない「沈香」の文字が譬えアルファベットでもこんな容器に書いてあると何か驚く。

これは沈香の香りのする錬り香水である。香水の類、沢山あるけれど「白檀」系のものはあるが「沈香」ははじめてみた。
香りを試してみると、沈香の香りが中心になっているようだが他に何かいろいろブレンドしてある。沈香の香りといってもこれは焚く前の沈香の香りだ。ブレンドした人は沈香を焚かないで香りをイメージしたのだろうか?白檀系の香水も焚く前の白檀の香りがするように。

でもでも、この錬り香水、沈香を使った法要のあとのような香りがするので使ってみようと思う。悪くない。